雫石事故の真犯人 犠牲者162人の空中衝突で裁かれるべきは誰だったか 最後の社会部記者鍛治壮一2020年03月15日 11:16

前回の「機関銃がない」
http://kajiyan.asablo.jp/blog/2020/03/08/9222005
に続く雫石空中衝突事故の話

書けなかったこと書きたいこと(鍛治壮一)
雫石事故のショック(その2)
◆空中衝突を予告した報告書

 雫石事故の起こる5ヶ月半前の71年(昭和46年)2月15日に航空幕僚監部の監察官、鈴木瞭五郎空将補は「飛行安全特定監察報告」を空幕長に提出した。ニアミス防止のため、その前の1年間をかけ、全国の航空部隊で実態調査をし、その対策をどうするかをまとめた分厚い報告書だった。空幕内で、さらに検討したあと、4月に中曽根康弘防衛庁長官に空幕長と監察官が説明した。いまのように資料をパソコンに入力して投影するわけにはいかないから、紙芝居の4倍ぐらいの大きなチャートを何枚も作って大臣に分かりやすく説明。その2週間後に、全く同じ内容を防衛庁記者クラブにも監察官がレクチャーした。
 航空自衛隊のパイロットの多くが、ニアミスや、それに近い“ヒヤリ・ハット”を体験していること。ニアミス防止のため空域をもっと有効安全に使いたい。具体的には、空域を平面的に分けるだけでなく、時間差、高度差を設ける。訓練空域へ行くためのコリドー(回廊)を設置することなどが細かく報告されていた。「その実現のため空幕の防衛部などが運輸省航空局の担当者と折衝してきたが、進展しない。防衛庁と運輸省の事務担当者同士の話し合いのテーマではない。大臣同士とか、政府そのものの判断によって、ニアミス防止の具体的な方策をやっていただきたい」という趣旨である。報告書は「このままでは異常接近(ニアミス)にとどまらず、空中衝突の危険もある」と結んでいた。
 しかし、鳴りもの入りで大臣に就任した中曽根長官は、何もしなかった。空幕長室の近くにあった空幕広報で取材していると、よく上田泰弘空幕長が顔を見せる。決まって言うことは「本当に心配なんです。空中衝突でもしたら、大変なことになると、気が気ではない」--、そして7月30日、F-86F戦闘機と全日空B.727の空中衝突が起きた。

◆「私も危ないと思った」防衛庁長官

 中曽根長官は交替して増原恵吉長官になっていた。毎日新聞の政治部から防衛庁記者クラブ詰めをしているS記者が自民党の総務局長になっていた中曽根さんの話をきにいった。
「僕も危ないと思っていました」のひと言だった。
 監察官や空幕幹部が、空域について航空局と話し合うのはかなり困難なことだった。とくに、管制官の組合は自衛隊に対しても厳しくて、事務当局レベルの交渉は不可能な時代だった。
 その一方で、国・政府は航空自衛隊にスクランブルや訓練の任務を命じている。シビリアン、その長である防衛庁長官、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣は「なんとか空域とその運用について“政治的”に考慮して欲しい」という航空自衛隊の声に、少しも耳を傾けようとしなかった。
 雫石事故後まもなく、政府は運輸・防衛の関係者を集め、空中衝突防止のための「緊急対策要綱」を作って公表した。内容はなんと、「飛行安全特定監察報告」で、こうして欲しいと空幕が要望していたものと、ほとんど同じだった。

◆政治の怠慢こそ犯人

 雫石事故は予測された事故だと言われる。だがそれだけではない。本当の被告席に座るのは、国であり、政府であり、行政である。監察報告の切実な願いに、一顧だにしなかった“政治”の責任である。自衛隊機がからんでいるというので、内閣総理府交通安全室が雫石事故を担当した。事故報告書に、こうした政治や行政の怠慢が記載されるはずもない。恒久的な航空事故調査委員会が発足したのは、さらに2年後の73年10月である。
●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

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