小野田寛郎・元日本兵の追悼記事 最後の社会部記者鍛治壮一第3回2020年02月02日 16:36

29年目の追悼
 <3つの29年>
 今回は鍛治壮一の一番最近の新聞記事を紹介する。6年前に亡くなった最後の日本兵・小野田寛郎元少尉の追悼文だ。小野田さんは上官の命令でフィリピンの孤島に赴き、1945年に日本が全面降伏した後も、ジャングルで29年間戦い続けた。新聞社に29年勤めた鍛治壮一は、定年退職後も航空ジャーナリストとして取材と執筆を続けていた。この記事を書いたのは奇しくもフリーになってから29年目だった。
(専用ブログはこちら→ https://kajisoichi.hatenablog.com/

小野田寛郎さん 元日本兵 1月16日死去・91歳
◆大義名分離れた余生
 小野田さんが説得に来た上官の指示で「残置諜者」の任務を離れ、ルバング島の比空軍基地で記者会見したのは1974年3月10日。特派員としてその場に立ち会った。眉ひとつ動かさず、不動の姿勢。同じように2年前、グアム島で会った元洋服仕立て職人の横井庄一さんとは異質なものを感じた。
 将校らしく、質問に対して任務、命令、判断など簡潔に答える中、感情を示したのは3回。「29年間でうれしかったことは」との質問に「一度もありません」と怒りの表情。外国人記者が「軍刀を抜いてみせて」と頼むと、サビて刃こぼれしているさまを恥じる様子を見せた。そして何より、2年前に警察隊との銃撃で死亡した部下の小塚金七・元1等兵について聞かれると「警察はまだ来てないという私の判断ミス」と声を落とした。
 何度にも渡る捜索で発見できず、2度も戦死公報が出た。捜索隊が置いていく新聞などで日本の状況を知っていたというのになぜ、60キロの「所帯道具」を背負って移動し隠れ続けたのか。帰国後、毎年末の自衛隊の懇親会で顔を合わせる中、当時について口が堅くなっていた小野田さんに改めて聞いたことがある。
 その時語ったのが「死ぬのを避けるために戦い続けた」という言葉と、長く行動を共にした小塚さんを守れなかった悔いだった。「敵地で生き延び、友軍復帰を待つ」という任務の下、あらゆる情報戦を想定し、地元住民も敵と考えざるを得なかった。
 戦後、もっと上の階級で責任逃れした軍人も多い中、古武士然としたたたずまいから実直さがにじみ出た小野田さん。22年後の96年に現地を再訪して和解と歓迎の行事に臨んだのは、何より幸せな出来事だっただろう。(元毎日新聞記者、鍛治壮一)

 この記事を読んだライバル紙の追悼欄担当者が「参考にさせてもらいます」と言っていた。80歳を過ぎて新聞に記事を書いている元新聞記者は珍しいだろう。
 さて、次回は、鍛治壮一が航空専門誌に書いたこの小野田さんの取材合戦の裏側。米ベル社の軍用ヘリ・UH-1イロコイが大活躍する。(鍛治信太郎)