ジャニーの犯罪に新聞はなぜ無関心だったか(4)芸能人の私事を書くは弱者イジメ ― 2023年11月02日 18:02

昭和の話だが、芦屋あたりのお嬢さんと付き合っていた学生が相手の親から「弁護士になるなら結婚してもいいが、新聞記者なんかになる者に娘はやれない」と言われたそうだ。ブンヤ家業は河原乞食並みにまっとうでない商売と考えられていたのだ。
当時、「記者、役者、芸者は衣装に気と金を使わなければならない」という言葉があったた。人に見られる仕事だからという表向きの意味もあるが、そもそも身なりがみすぼらしかったら誰にも相手にされない職業いうことだ。これが医者や弁護士なら質素な服を着ていても「良心的に仕事をしてるから清貧なんだな」と尊敬されるかもしれない。ヤクザの幹部がアルマーニのスーツを着てベンツに乗るのと同じこと。
さて、大正時代に書かれた「最近新聞紙学」という記者の仕事ハウツー本の名作がある。その中の総論第一章第二節「新聞価値の減殺」の中に、こんな事が書いてある。
「二、人の私事 いかなる人間にも、公開されては困る私の所がある。善悪いかんの問題ではなくして、ただ私のことであるから、公にされては困る。困るという程になくても、公にしたくないことが、誰にもある。こういう公にすべからざる私の事を公開の紙上に掲ぐるのは、正しく人道の大義に反した不徳である。この故に一個人の私事にわたるものは、善悪ともに新聞紙の材料とすべきものでない。欧米文明諸国の新聞紙には、『プライベート』(私の)ということは『新聞紙に出さぬ』ということとほとんど同意義に用いられている」
「三、善良の風俗に反すること そういうことを喜ぶ読者が多いからだと言えば、それまでながら、元来新聞紙及び新聞記者は、常に一世を指導すべき任務のあるもので、一も二も劣悪なる読者の好尚に媚びて、自ら売らんことをのみ求むるは陋(=いやしい)である。殊に笑うに堪えたるは、好んで芸妓や茶屋女などの些事を掲ぐるを得意とする新聞紙のあることで、或いは芸娼妓の開業廃業を報じ、或いは旦那とか情夫とか称する者との関係を報じ、或いは下劣なる俳優がこの種の女とふざけあったてん末を報ずるが如き、誠に沙汰の限りといわざるを得ない。彼らの社会にありがちな男女の間の常時の成敗などを掲ぐるが如きは、一に下劣な読者の好奇心を満足せしむるに過ぎない。新聞紙が自ら卑しゅうするとは、こういうことを言うのである。自ら卑しゅうするばかりなら、まだしもの事、この種の記事は、ともすれば弱者を壓迫(=圧迫)することになって、人気を命とする歌舞伎俳優その他各種の芸人などが、これが為に、人気を失墜し営業に失敗することが、どれほどあるか知れぬ。おのれ自ら強大な武器をもった新聞記者が、一方学者、政治家、実業家の如き強者に阿附(=へつらう)しながら、他の一方に弱者を虐げて得たりとするが如きは実にけしからぬ話である。この点においてわれらは、かつてこれらの事に筆を染めぬ『時事』『報知』『萬朝報』『朝日』を高しとせざるを得ない」
つまり、強大な力を持った新聞が役者や芸能人の私事、色事を取り上げるのは弱い者イジメである。その力は、国民から預かったに過ぎない権力を私物化し、私利私欲のために使って腐敗している政治家の裏を暴くことに割くべきだと言ってるわけだ。ブンヤなんてヤクザな商売かもしれないが、「弱きを助け、強きを挫く」清水の次郎長のような任侠ヤクザであるという矜持があった。
この一線を守るかどうかが報道機関(ジャーナリズム)と単なる興味本位なメディアとの境界だと思う。
近年、ワイドショーや週刊誌、スポーツ紙が大騒ぎしたけど、新聞が全く書かなかったニュースは枚挙に暇がないが、思いつくままに列挙すると、
・眞子さんの婚約者の小室さんの母親の借金騒動(秋篠宮の公式会見での言及のみ報道)
・オセロ中島、事務所独立、洗脳騒動
・小林幸子、マネージャー解任騒動
東出、杏夫婦の不倫騒動なども離婚の事実を小さく報じただけ。有名人であってもプライベートはニュースではないという線引きを戦後もずっと続けて来たのだ。
財務事務次官のセクハラ疑惑のように権力を悪用したセクハラなどは別。ジャニー喜多川はその影響力において国会議員や高級官僚、大企業の社長などと同じぐらいの権力者であるという認識が新聞に欠けていたと言える。
◆ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(1) 所詮河原乞食の世界の出来事
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/24/9627973
◆ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(2) テレビ芸能はニュースカースト最下層
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/26/9628402
◆ ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(3) 週刊誌は告訴上等 新聞は裁判を極度に忌避
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/30/9629643
当時、「記者、役者、芸者は衣装に気と金を使わなければならない」という言葉があったた。人に見られる仕事だからという表向きの意味もあるが、そもそも身なりがみすぼらしかったら誰にも相手にされない職業いうことだ。これが医者や弁護士なら質素な服を着ていても「良心的に仕事をしてるから清貧なんだな」と尊敬されるかもしれない。ヤクザの幹部がアルマーニのスーツを着てベンツに乗るのと同じこと。
さて、大正時代に書かれた「最近新聞紙学」という記者の仕事ハウツー本の名作がある。その中の総論第一章第二節「新聞価値の減殺」の中に、こんな事が書いてある。
「二、人の私事 いかなる人間にも、公開されては困る私の所がある。善悪いかんの問題ではなくして、ただ私のことであるから、公にされては困る。困るという程になくても、公にしたくないことが、誰にもある。こういう公にすべからざる私の事を公開の紙上に掲ぐるのは、正しく人道の大義に反した不徳である。この故に一個人の私事にわたるものは、善悪ともに新聞紙の材料とすべきものでない。欧米文明諸国の新聞紙には、『プライベート』(私の)ということは『新聞紙に出さぬ』ということとほとんど同意義に用いられている」
「三、善良の風俗に反すること そういうことを喜ぶ読者が多いからだと言えば、それまでながら、元来新聞紙及び新聞記者は、常に一世を指導すべき任務のあるもので、一も二も劣悪なる読者の好尚に媚びて、自ら売らんことをのみ求むるは陋(=いやしい)である。殊に笑うに堪えたるは、好んで芸妓や茶屋女などの些事を掲ぐるを得意とする新聞紙のあることで、或いは芸娼妓の開業廃業を報じ、或いは旦那とか情夫とか称する者との関係を報じ、或いは下劣なる俳優がこの種の女とふざけあったてん末を報ずるが如き、誠に沙汰の限りといわざるを得ない。彼らの社会にありがちな男女の間の常時の成敗などを掲ぐるが如きは、一に下劣な読者の好奇心を満足せしむるに過ぎない。新聞紙が自ら卑しゅうするとは、こういうことを言うのである。自ら卑しゅうするばかりなら、まだしもの事、この種の記事は、ともすれば弱者を壓迫(=圧迫)することになって、人気を命とする歌舞伎俳優その他各種の芸人などが、これが為に、人気を失墜し営業に失敗することが、どれほどあるか知れぬ。おのれ自ら強大な武器をもった新聞記者が、一方学者、政治家、実業家の如き強者に阿附(=へつらう)しながら、他の一方に弱者を虐げて得たりとするが如きは実にけしからぬ話である。この点においてわれらは、かつてこれらの事に筆を染めぬ『時事』『報知』『萬朝報』『朝日』を高しとせざるを得ない」
つまり、強大な力を持った新聞が役者や芸能人の私事、色事を取り上げるのは弱い者イジメである。その力は、国民から預かったに過ぎない権力を私物化し、私利私欲のために使って腐敗している政治家の裏を暴くことに割くべきだと言ってるわけだ。ブンヤなんてヤクザな商売かもしれないが、「弱きを助け、強きを挫く」清水の次郎長のような任侠ヤクザであるという矜持があった。
この一線を守るかどうかが報道機関(ジャーナリズム)と単なる興味本位なメディアとの境界だと思う。
近年、ワイドショーや週刊誌、スポーツ紙が大騒ぎしたけど、新聞が全く書かなかったニュースは枚挙に暇がないが、思いつくままに列挙すると、
・眞子さんの婚約者の小室さんの母親の借金騒動(秋篠宮の公式会見での言及のみ報道)
・オセロ中島、事務所独立、洗脳騒動
・小林幸子、マネージャー解任騒動
東出、杏夫婦の不倫騒動なども離婚の事実を小さく報じただけ。有名人であってもプライベートはニュースではないという線引きを戦後もずっと続けて来たのだ。
財務事務次官のセクハラ疑惑のように権力を悪用したセクハラなどは別。ジャニー喜多川はその影響力において国会議員や高級官僚、大企業の社長などと同じぐらいの権力者であるという認識が新聞に欠けていたと言える。
◆ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(1) 所詮河原乞食の世界の出来事
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/24/9627973
◆ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(2) テレビ芸能はニュースカースト最下層
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/26/9628402
◆ ジャニー喜多川の犯罪に新聞などはなぜ無関心だったのか(3) 週刊誌は告訴上等 新聞は裁判を極度に忌避
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2023/10/30/9629643
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