墜落して死んだ方がいいと絶望 日本兵救出取材 苛烈な戦い 最後の社会部記者鍛治壮一2020年02月11日 07:25

墜落して死んだ方がいいと絶望
 航空機マニアな航空ジャーナリストが輸送機C-47や軍用ヘリUH-1に絶望を味わわせられる。「他社カメラマンをヘリから蹴落とした伝説」が生まれる。記者が演じる歌舞伎の十八番「勧進帳」とは・・・・。
 鍛治壮一は30年近い会社人生のほとんどを東京本社社会部記者として過ごした。新人1年目の札幌から戻って以来、一度も転勤はない。全国紙の記者ではほかにいないだろう。唯一新聞作成部門である編集局を離れたことがある。1974年、最後の日本兵、小野田寛郎少尉がフィリピンの孤島のジャングルで発見された。当時、鍛治壮一は雑誌「サンデー毎日」にいた。そして、デスク(副編集長)であるにも関わらず、現地取材に派遣された。さらに、新聞部門に所属していないのに世紀の瞬間の新聞を1人で埋め尽くす。なぜそんな珍事が起きたのか。その裏話を振り返った雑誌「航空ファン」のコラムを紹介する。

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
小野田元少尉救出取材の“戦い”

◆二度、戦死した日本兵

 元日本兵、小野田寛郎少尉が今度こそ、間違いなくルバング島で生きている、と分かったのは1974(昭和49)年2月26日だった。小野田さんはマニラから南へ170kmの孤島、ルバング島で終戦の年の9月2日に戦死したと戸籍簿に書き込まれた。しかし、その後もルバング島では民家から食料品が盗まれたり、畑の作物が荒らされる被害があり、これは元日本兵だというウワサが流されていた。しかし、神出鬼没だからその実体がつかめない。
 ルバング島は山頂にフィリピン空軍のレーダー基地があるだけで、住む人も少ないから、ウワサは長い間そのままにされていた。1955年になって、やっとフィリピン空軍が空から元日本兵”投降勧告”のビラを撒いたが、反応がない。1958年にふたたび15,000枚のビラを散布すると同時に、日本から厚生省の役人や小野田さんの兄敏郎さんらがルバング島に上陸して調査したが、小野田さんの影も形もつかめなかった。翌年は6カ月にわたって敏郎さんらが捜索活動をしたが、やはり手がかりすら発見できない。年末に厚生省はあらためて小野田さんと彼の部下の小塚金七一等兵に死亡広報を発行する。小野田さんにとって二度目の”戦死”である。

◆虐殺された小塚一等兵

 それから13年経ち、すべて忘れ去られようとした1972年10月19日、ショッキングな事件が起きた。地元の警察隊が元日本兵と遭遇して銃撃戦となり、小塚元一等兵が殺されたのだ。小野田さんは逃走して行方不明だが、この島のどこかにいる。
 毎日新聞社会部のデスク(サツデスク)*1だった私は、1月のグアム島の横井庄一元軍曹の救出取材に続いて、ふたたび現地に向かう。小塚さんの検視書類を見て状況がわかった。2、30mの距離から撃たれ、2発、3発……8発。死んでも撃たれ、駆けつけた島民に、恨みの山刀でメッタ切りされた。"山賊"のように虐殺された。ここ10数年に30人の島民が日本兵に殺害された、と彼らは言う。
 日本大使館の葬儀で占部大使は、「帝国軍人として小塚一等兵は戦って死んだ。マルコス大統領が軍人として最高の栄誉を与えてくれました……」と弔辞を読み上げた。
 小柄な小塚さんの両親は、棺の脇で、涙も出なかった。30年前に戦争に行った息子が、こんなに大きくなって、今まで生きていた。そして今死体となって……。その衝撃が悲しみまで奪ってしまった。
 この後、日本とフィリピンによる徹底的な小野田さん捜しが実施されたが、やはり所在、生死ともに不明で、捜索打ち切りとなった。

◆「君はジャングル番記者だ」

 ところが、“世界放浪の旅”を続けていた鈴木紀夫青年(24)が、74年2月、ルバング島のジャングルで小野田さんに会い、写真まで撮影してきた。「自分は離島残置諜者(*2)だ。たとえ日本軍が敗れても死んではならない。命を惜しみ卑怯者と言われても、祖国のために生き延び、天皇陛下のために戦うのだ。この島に、自分を派遣した直属の上官、谷口義美少佐の命令がない限り、ジャングルから出ない」と言った。
 鈴木さんから話を聞き、日本大使館から外務省、厚生省へと伝わった情報が2月27日の日本の朝刊に「小野田さん生存??」の大ニュースとして載った。
 私は社会部から『サンデー毎日』副編集長に異動になっていた。『週間朝日』『週間読売』だけでなく、『週間現代』や『週間宝石』などと企画や内容で激しい販売合戦に突入していたから、新聞記者とは、また違った判断とか企画に追われていた。取材の主力は編集局の社会部だが、「カジくんが行くべき」と、またもルバングへ出張することになった。同僚の徳岡孝夫副編集長など、「ジャングル番記者の報告のタイトルで表紙に刷り込むからな」という(*3)。
 その日の夕、社会部のH記者ら2人、私、カメラマン2人は数十人の日本人報道陣としてマニラ空港に着いた。意外なことに入国管理の役人が、「なぜ、こんなにプレスが来るんだ?」と不思議そうな顔をする。そうか。今度が小野田救出の最後のチャンスと見たフィリピン側が、徹底的な報道規制を敷いていたのだ。ここで勝たねば、セスナ機をチャーターしてマニラとルバングを何度も往復し、ジャングルを駆けずり回った1年半が水の泡と消える。各社とも全力投球の構えだ。

◆日本軍人の“キカン”である

 とりあえず、日本大使館に占部大使を訪ねた。「なんと言われても、取材については一切協力できません。ルバング島にも接近禁止です」
「鈴木青年が撮った小野田少尉の写真を見せられたときは、グッときたな。29年間、降伏もせず、ボロボロの軍服なのに。じつにキチンとしている。ひと目で日本軍人と分かった」
 どちらかと言えば、元日本兵捜索には冷淡な大使だった。前回の取材のとき、「住民の中に溶け込んでいたり、現地人と結婚していれば、無理に日本人だといって探し出す必要はない」「いまさら戦争の悪夢を掘り起こし、日々の親善を傷つけることはない」と、繰り返し私に言ったものだ。その占部大使が興奮している。戦争中の教育を受けた典型的な外務官僚だ。「外務省に公電を打つとき、『ニホングンジンノキカン(亀鑑)デアル』(*4)と書きたいのに、『キカン』を『帰還』と間違われると言われ、やむなく『ニホングンジンノモハンデアル』と電文を変えた」と、大使は残念がることしきり。
 翌日、空軍基地で司令官のランクード少将に会った。ルバング島の責任者だ。
「小野田少尉は古今東西の歴史上でも、まれな軍人である。あらゆるものを犠牲にした。国家への忠誠こそ、完全なサムライスピリットだ。日本だけではない。アジアの英雄だ」
 マルコス大統領の特命もあるが、空軍の名誉にかけ、軍人同士という連帯感からも救出する意気込みである。----だが、われわれの取材はどうなるのだろうか?? あれほど息詰まる2週間が続くとは、誰も予測できなかった。

絶望、また絶望の小野田取材の“戦争”

◆抜け駆け取材不可能の厳重規制

 戦争が終わって29年。何度も何度も捜索したが行方がわからない。二度も戦死と断定した小野田寛郎少尉が、確実に生きてルバング島にいる。「生きてスパイ活動をせよ」という離島残置諜者の命令を守って戦っていた。鈴木青年とジャングルで会い、「上官の谷口義美少佐の命令がない限り、ここで戦う」と言った。
 今度こそは絶対に救出する、と奮い立ったのは日本政府や肉親だけではなかった。フィリピン政府の名誉にかけても成功させる」とマルコス大統領が、直にフィリピン空軍に特命した。そして、鈴木青年、兄の敏朗さん、谷口元上官だけがルバング島に上陸した。マスコミがルバング島で取材活動すれば、小野田少尉は姿を現さない。私はルバング島への“抜け駆け取材”は不可能と考えた。島は空軍のレーダーサイト基地だし、山頂への軍用道路以外に道らしきものがない。
 接近禁止を破って、漁船を雇って上陸を試みたテレビ会社の記者は、空軍に捕まった。加熱するマスコミに、空軍はやっと約束してくれた。「もし、谷口少佐らが小野田さんを発見したら、マニラに待機している取材陣に連絡する。各社2人ずつ、空軍輸送機で運ぶ」。毎日新聞社は新聞として社会部員とカメラマン、サンデー毎日の私とAカメラマンの4人を第一陣要員として空軍に登録した。しかし、社会部チームのHキャップは、「万一、1人しか小野田さんに会えなかったら、カジさんが原稿を書いてください」と言う。そういうときはそうしよう、と後輩のH君に答えた。

◆絶望!! C-47に乗り遅れる

「小野田少尉との接触に成功。ルバング島に渡る記者代表団は、ただちに、ニコルス空軍基地VIPルームに急行せよ」--マニラに来て12日目の1974年3月10日の午後3時、日本大使館にルバング島のレーダー基地から無線が飛び込んだ。われわれのミスで連絡が30分遅れた。予測より早い。すごく早い。夕方なら翌朝、空軍機が運ぶ約束だった。夜間照明のないルバング島は、夜、離着陸できないからだ。それなのに、これは緊急事態だ。
 4時15分、ニコルス空軍基地。ゲートに入るとき、目の前をC-47輸送機が1機、2機、滑走路に向かって進んでいくではないか。3番機のプロペラが回っている。私、加藤カメラマン……、続いて共同通信の2人。駆け寄ると、すぐにドアが開けられ、「危ない。機体から離れろ、どけ!」と軍曹が必死に叫ぶ。
 VIPルームに連れ戻される。その間に30人あまりの記者団が順番を競って並んでいる。「とても乗れない。1社1人にしろ」と広報担当の空軍大尉。「早い者勝ちにしろ」と記者の1人。「そうだ、そうだ」という声が圧倒的。--小野田少尉との最初の会見に遅れたら、すべてはゼロ。これまでの努力が、すべて消える。見送りに来た社会部のHキャップが大きな声で「落ち着くように、あわてないように、みんなに言ってください」
 どうして落ち着けるのだ。先に着いた記者たちが小野田さんと会えたら、記者会見を待つはずがない。この2週間、いや1年半にわたる激しい取材合戦を体験してきた私には、それがわかる。

◆このまま墜落してもいい!

「C-123輸送機を使うから、全員オーケーだ。国際空港側の格納庫まで行け」
 大尉の言葉が終わらないうちにVIPルームの外へ。軍用ジープが通りかかった。大尉が指差しただけで、ジープに20数人がなだれ込む。「ドント・キル・ミー。助けてくれ」。ハンドルの上に押し付けられた伍長が悲鳴をあげる。空軍兵士たちは驚き、ゲラゲラ笑う。
 5時14分、フェアチャイルドC-123プロバイダーはマニラ空港を離陸。米軍供与のかなり使いこなした機体。2、3ヶ所に穴があいていて、ザー、ゴーというものすごい轟音の機内。カメラマンたちが、数少ない窓から下界を撮ろうと、やっきになっている。私も加藤君もチャーターしたセスナ機で、この空を何回往復したことだろう。
 じっと目をつぶり、ただ、最初に小野田少尉に会えるかどうか。それだけで一杯だった。先発のマスコミに1時間は遅れてしまった。「オンボロ輸送機だ。会見に間に合わないくらいなら、このまま墜落して死んだほうがいい」と加藤カメラマンに口走った。自分の飛行機が落ちてもいいとは。本当にそう思った。彼は今でも「あんなカジさんは見たこともない」と言う。
 5時40分、ルバング島上空。モヤと夕日の斜光で島は黄色く霞んでいた。

◆またも絶望のイロコイ

 5時44分着陸。滑走路1本と、そばに堀建て小屋みたいなバラックが2つ。いた。C-47輸送機が3機。バラックの方を見た。
 しめた。地元記者、サンケイ、テレビリポーター、朝日新聞記者たちが牛囲いのように鉄条網を張った中にいる。まだだ。
 夕日が沈むまで、もう何分もない。滑走路の向こうのサンゴ礁の海に、真っ赤な太陽が落ちていく。どうすれば山頂のレーダーサイト基地まで行けるのだろうか。われわれの“戦争”がまもなく始まる。
 6時5分、日没。遥か山頂からヘリの爆音。1機、2機、こちらに向かってくる。「小野田が乗っているんだ」「ここで会見だ」。誰もがそう考え、口々に叫びながら鉄条網の柵に近づいた。カービン銃の空軍兵士が阻止する。
 ベルUH-1イロコイ・ヘリコプターが2機編隊で着陸。回転翼はブンブン回したままなのだ。3機目は、遠くC-47の向こう側に降りた。
 6時15分、指揮官らしい将校が地元フィリピン記者に何やら耳打ちした。それが合図だった。
 柵を破って、ドッと70数名の記者、カメラマンが2機のヘリ目指して殺到していく。私がヘリに近づく前に、ヘリから人間がはみ出していた。絶望!?      (つづく)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

この続きはこちら → https://kajisoichi.hatenablog.com/

脚注(鍛治信太郎)

*1 サツデスク ふつう、新聞社のデスクとは部長の下に数人いる次長を指す。欧米の新聞社でいうアンカーマンに近い。各部のデスク、例えば、社会部だったら、その日の1面や社会面にどんな記事を出すか決め、現場の記者から出てきた原稿を直し、紙面のまとめ役である整理部に売り込む。大きな部では部長とデスクの間に副部長、部長代理を置く場合もある。また、筆頭デスクが部長代理を兼ねることもある。だが、毎日新聞社会部の「サツデスク」とは、いわゆるデスクとは意味が違うらしい。現場のまとめ役であるキャップとデスクの中間にいて、デスクを補助する存在のようだ。サツとは警察の察。警視庁やエリアごとの警察署担当から出てきた原稿を直して、とりまとめるような仕事(らしい)。なにしろ、社会部が1日に扱う原稿は数十本、時に100本を超える。デスクがすべてを詳細に読み込んで直していたらとても処理しきれない。
*2 離島残置諜者 初めて聞く言葉。小野田さんは諜報・工作活動をする情報将校の養成機関「陸軍中野学校」の二俣分校(静岡県浜松市)の出身だ。太平洋戦争で、日本はフィリピンなど東南アジアの国々に次々と領土を広げたが、米軍の上陸作戦により、その島々を奪還されていった。離島に残って現地に溶け込み、友軍の復帰、再占領を支援する諜報・工作員を意味するようだ。
*3 副編集長であるデスク4人がローテで表紙を飾るメインの特集を担当する。仕事はそれだけではない。ライターに指示を出し、出てきた原稿を商品に仕立てる。デスクは基本、編集部の机にかじりついて紙面製作の責任を負うアンカー。取材はしない存在だ。そのローテから2週間も離れて海外の取材合戦に参加なんて普通はありえない。
*4 亀鑑 「人の行いの手本」という意味らしいがこれも初めて聞いた。

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