ノーベル賞報道のウソ(3)サリドマイドは右手系だけなら安全という誤りが何故広まったのか ― 2026年10月25日 17:51

ノーベル賞報道のウソ(3)サリドマイドは右手系だけなら安全という誤りが何故広まったのか
 「サリドマイドは左手系(S体)にのみ催奇形性があるから、当時今の不斉合成技術があれば安全な右手系(R体)のみをつくることができ、サリドマイド薬害は起きなかった」。科学的に間違っているこの説がなぜ広く流布し、信じられているのか。
 化学者がいわゆる右手系、左手系、鏡像異性体の存在に気づいたのは19世紀のことだ。そして、有機物質の場合、分子の不斉炭素などが原因であるという概念も確立していた。また、人工的につくった右手系(D体)のアミノ酸は左手系(L体)のアミノ酸と味がまるで違うことも知られていた。20世紀初頭には植物由来の抗コリン薬ヒヨスチアミンは右手系(D体)には全く薬効がないことがわかるなど鏡像異性体は生理活性が全然違うことが常識になっていた。
 1960年代、サリドマイドの薬害が問題になった時、睡眠誘導作用と副作用は右手系(R体)と左手系(S体)で別々なのではないかと考えられたのだ。
1967年、ネイチャーでロンドン大のグループがウサギを使った催奇形性の実験結果を報告した。結果は左手系(S体)でも右手系(R体)でも催奇形性があったというものだ。
ところが、1979年、今度は独ミュンスター大のグループがマウスを使った実験で、左手系(S体)のみに催奇形性があったという結果を報告した。
結果が対立する2個の論文があるのに、なぜか後者の方だけが有名になり、「サリドマイドは左手系だけに副作用があり、右手系だけをつくる不斉合成技術があれば薬害を防げた」という言説が語られるようになった。その方が、薬学者の先入観と期待に応えるおもしろい話だからだろう。
 しかし、現在では以下のような理由で、このマウスの実験は何かの間違いだったと考えられている。
1)誰もこの結果(S体のみに催奇形性があり、R体では起きない)を再現できない
2)マウスやラットなど齧歯類はサリドマイドの催奇形性に対して強い抵抗力があり、そもそもマウスで奇形が起きたという結果はおかしい
3)マウスと違い、サリドマイドで奇形が起きるウサギを使った実験ではS体、R体ともに奇形が起きた

 おそらく間違いであるこの怪しい実験のおかげで、不斉合成というつくり分け技術が注目され、発展したことは事実だ。
だからといって、「サリドマイドは右手系だけを純粋につくって使えば安全だ」という危険なウソを発信し、誤解を放置していいということにならない。

◆ノーベル賞報道のウソ(1)
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2026/10/22/9882414
◆ノーベル賞報道のウソ(2)サリドマイドが化けるのは何故?
https://kajiyan.asablo.jp/blog/2026/10/24/9882694
◆1967年 ウサギの論文
https://scispace.com/pdf/toxicity-and-teratogenicity-of-optical-isomers-of-1gkp7zzpqo.pdf
◆1979年 マウスの論文
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/583234/