学校改革はなぜ失敗するか2024年06月19日 08:02

スプーンで(嫌がる)子どもに食べさせるのでも、子ども主導で自ら食べるのに任せるBLWも、食事中、子どもから目を離せないことは同じだ。
ただし、子どもにスプーンでどんどん食べさせた方が圧倒的に時間の節約になるだろう。言葉は悪いが、ブロイラーを育てるのと同じfeeding(エサやり)だ。本来、食事は楽しいことなのに、食べることの楽しさを教えることを置き去りにしている。
だから、時間はかかっても、手出しをせず、余計な手助けをせず、我慢して見守る忍耐強さが求められるのだ。
「授業改革運動」の著者に一番聞きかったのは、最後の質問「近年、新任の校長が定期試験を廃止するなどトップダウンの学校改革がはやりですが」だ。
校長による麹町中の試験改革や都立国立高のクラス替えがなぜ挫折したのか。生徒たちの心が動いてないのに、上から「やれ」、では学校は本当には変わらない。
1960年代後半、東大合格者数トップを続けていた都立日比谷など全国の多くの高校で学園紛争が起きていた。生徒たちの運動によって校則が変わったり、定期試験が廃止されたり、自主ゼミが設置されたりした。しかし、ほとんどが最終的に生徒側の敗北と挫折に終わった。生徒が学校側に勝利したのは東京の麻布と北海道の学校の2校だけだったとも言われている。
授業改革運動の著者によると、その後、公立校では文科省や教委からの教員管理が強まった。主体性を奪われたのは生徒だけではなかったのだ。麻布では、校長代行という「悪役」との闘争の中で、教員同士、教員と生徒の間で、共に考え、共に行動する、ということが経験され、礎となった。私立だったから、文科省、都教委からのトップダウンから逃れられたという面もある。
また、ケガの功名もあったという。生徒による授業改革の主張には限界があるからだ。学校教育を批判はできても、教育のプロではないから自ら新しい教育法を構築できない。行き詰まっていたところに悪役が現れたので、棚上げになり、結局、改革運動の中心世代の卒業後も教員によって改革が継続した。
一時は改革の旗手としてもてはやされた麹町中。今は以前以上に統制の行き届いた学校に戻ってしまったと噂に聞いた。麹町の同級生のほとんどが麴町中に行ったが、管理教育の権化のようなイメージだった。
公立中学で授業や定期試験を改革することの限界は、しょせんどんな方法を取ろうと公立高受験がある以上、内申という形で生徒に成績を付け、序列をつけなければならないこと。そして、校長の任期が短いことなどがある。
それでも、校長や教員は早急な成果を求めず、手や口を出したいのを我慢し、生徒が自らの足で歩き出すことこそ結果より重要だと認識し、見守らなければならない。

◆赤ちゃん主導の手づかみ離乳食「BLW」 親のストレスが減り、食生活見直すきっかけにも
https://www.asahi.com/edua/article/15308443

◆55年前の記録を出版「よみがえれ! 授業改革運動」――麻布中高で「生徒の主体性を試す授業」が生まれた原点
https://www.asahi.com/edua/article/15293958

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