最後の社会部記者 鍛治壮一儀2022年03月19日 14:19

最後の社会部記者 鍛治壮一儀
 弔電・供花、また生前に亡父と面識のあった方々から丁重なおくやみの言葉をいただきありがとうございました。喪主のみさ子に代わってお礼申し上げます。
 壮一は毎日新聞での29年3カ月のほとんどを東京社会部の記者として過ごし、新人1年目の札幌から戻って以来、定年まで東京本社勤務でした。生涯に10回ぐらいは転勤するのが当然の全国紙記者としては非常に異例でしょう。以前は編集委員室なる居城があったのですが、防衛庁記者クラブに常駐するなど普通に兵隊の頭数となる各部所属の編集委員という今では当たり前の制度も彼が初だったと聞いています。

 ◆日本の民間人初のF15搭乗、松本零士らとアマゾン探検、ビートルズ武道館公演取材・・・。楽しそうな事ばかり目立ったが

 1978年当時、航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)に決まっていたF-15イーグルへの搭乗を防衛庁に断られました。ペンタゴンに直談判し、セントルイスのマグダネル・ダグラス社に出張して日本の民間人で初めてF-15搭乗記を書いたり。普通は見られない自衛隊の戦車、潜水艦、各装備などの見学に漫画家・松本零士を連れ回して、イラストを描いてもらう連載を企画したり。ちばてつやらも巻き込んで同行取材でアマゾンを探検したり。そのときは松本さんがコンコルドに乗りたいと言ったので、パリからエールフランスのコンコルドでリオデジャネイロ入りしたり。66年のビートルズ最初で最後の日本公演に、突発警戒要員として社会部からただ1人武道館に入ったり。
 同僚、後輩記者からも「鍛治さんほど幸せな記者はいない」と言われてました。新聞記者としてあれほど楽しく充実した人生を歩んだ者はほかにいないかもしれません。
しかし、今回、大学の写真サークルの後輩という方から聞いたのですが、「趣味のような仕事ばかりしていたように思われてるかもしれないが、自分は社会部記者としてやらなければならないことを他人の何倍もやって、その上で、やりたいこともやっていたんだから誤解しないでほしい」と言っていたそうです。

 ◆航空と軍事問題と右翼に強い社会部記者

 都下の方面回り(警視庁警察署のサツ回り)ももちろんやってます。DC3下田沖事故、B727東京湾事故など航空関連だけではありません。「組織暴力の実態」という長期連載の取材班では大物総会屋・上森子鉄に食い込みました。歴代でも有名な当時の日銀総裁が都市銀行の総会対策担当だった時に企業幹部と総会屋を交えた手打ちの場に同席していたという情報を得ました。先輩の経済部金融担当記者の総裁面会にくっついて行き、本人に突きつけ、認めさせたのですが、ある理由で没。「せっかくの特ダネを横やりで没にされて悔しくなかったのか」と問うたら、この一件で「社会部の若手にすごい奴がいる」と編集局中に認知されたので自分としては満足だったとの答。
 71年のANAと自衛隊の戦闘機が衝突した雫石事故では現地の記者が抜かれてばかりいると後から投入されました。草刈りがすっかり終わっていてネタなど落ちてないはずの現場でしたが、墜落した戦闘機の残骸から機銃が持ち去られているという特ダネを書きました。

 ◆「塩だ、塩をくれ」 江守徹が覚えていた叫び

 72年、グアム島で横井庄一伍長発見の際は、社会部のサブデスク(方面回りから上がってくる情報や記事を統括し、デスクワークと指示をする役割だそうです)でほぼ連日午前3時過ぎに帰宅していました。現地入りを命じられたが長期出張できるような職責ではないので断ったら「ほかにパスポートを持ってる記者がいない」とのひどい理由で説得されたそうです。後年、俳優の江守徹を取材した際、初対面の江守さんに1面に書いた特派員電を覚えていると言われたそうです。「塩だ。塩をくれ」という横井さんの第一声が印象的だったと。自分を「捕まえ」に来たのが日本人だと認識した横井さんの叫びです。現地で本人会見が始まる前、「間に合った」と弛緩している他社を尻目に、領事などに当たって取った特ダネです。江守さんは当時、「ナチスに閉じ込められ、仲間の死体を食べて生きのびた兵士の独白」という一人芝居に挑んでいたので、本当に横井さんの記事を読んで覚えていたのかもしれません。

 ◆「他社をヘリから蹴落とした」サンデーデスクと朝日に譲った心優しき後輩

 横井さんから2年後、最後の日本兵・小野田寛郎少尉がフィリピン・ルバング島で「救出」されました。このときは、20代で所属してから定年までにただ一度だけ東京社会部を離れてサンデー毎日のデスクをしていました。詳細は略しますが、正義感で編集局の方針に真っ向から逆らったのが原因でした。デスクローテで4週に1回メイン特集を作らなければならないのに現地に派遣。本人の待つレーダーサイトに向かう軍用ヘリには地元と日本の記者が殺到。「鍛治記者は他社をヘリから蹴落とした」と噂されましたがもちろんそこまではやってません。定員10人ほどのヘリで最初に臨場した中に朝日の記者も毎日社会部の記者もいませんでした。だいぶ遅れて何とか間に合った軍用トラックには実は毎日の社会部記者が席を確保していたのですが、朝日の記者から「毎日は鍛治さんが先に行っているから替わってくれ」と頼まれ譲ってしまったそうです。ライバルに塩を送る優しい後輩のおかげで、編集局員でないどころか、幹部から「俺の目の黒いうちは社会部には絶対戻さない」と言われた週刊誌デスクが夕刊の1面、2面、社面の現地部分すべてをマニラのホテルから勧進帳(原稿もなしに頭の中にある記事を電話で送ること。能の「安宅の関」の弁慶の逸話にちなむ記者用語)で送ることになりました。「ウソ800というが、後で数えたら下書きもなしで吹き込んだ記事は800行だった」そうです。普通なら特派員のクレジット(署名)が入りますが、「サンデー毎日編集次長 鍛治壮一」とするわけにはいかず、社会部取材班でもなく、「本社特派員団」となりました。
 返還前のまだ日本ではなかった沖縄に長期出張することもしょっちゅうでした。沖縄返還に関わる問題の一つに米軍基地に配備されていた核ミサイルがあります。非核三原則に基づき核抜き返還が日米交渉の課題になっていました。今でも本当に撤去した証拠があるのかなどと書く評論家がいますが、壮一は基地でミサイルの先端から核弾頭を取り外している作業の写真を撮りました。敷地外からとはいえ、その場でばれたら相当まずい盗撮です。常々、筑紫哲也記者に「ぼくは沖縄にずっと住んでるのに鍛治さんはたまに来て特ダネを書いていくからずるいよ」と言われていたそうです。

 ◆重病の証人に向かって「本当に悪そうですね」 スパイカメラで隠し撮り

 ロッキード事件では、航空と防衛(そして右翼・総会屋)に強い編集委員兼デスクとして取材班に入りました。ロッキード児玉ルートのフィクサー児玉誉士夫の通訳だった福田太郎氏に病室で独占取材。しかも、ミノックスのスパイカメラで酸素マスクを付けた生々しい姿を隠し撮りしました。写真をすぐに載せると盗撮がばれてしまうので、インタビューには付けず、後日載せました。趣味で個人的に各種のカメラを持っていたのですが、これが契機となって写真部にスパイカメラが導入されたそうです。「カメラの性能でスクープ写真が撮れるわけではない」と笑ってました。なお、福田氏に秘密裏に会う際、この手の疑獄事件でよくある偽装面会謝絶だと思い込んでいて、思いの外ひどい顔色と苦しそうな呼吸を見て、ついうっかり「本当におかげんが悪そうですね」と本音をもらしてしまったそうです。
 1976年7、8月の田中角栄元首相逮捕・起訴でロッキードは終息します。壮一は取材班解散の打ち上げにも、「毎日新聞ロッキード取材全行動」の執筆にも加わってません。9月に起きたソ連ミグ25戦闘爆撃機の函館強行着陸、ソ連軍現役中尉亡命事件の現地取材に連続投入されていたからです。

 ◆定年退職後も他社を出し抜き名古屋空港中華航空機事故の原因をスクープ

 55歳で定年退職する前から、世界、中央公論、航空雑誌などに執筆し、定年後は航空評論家としてテレビ出演していました。
1994年の名古屋空港中華航空エアバス機事故では、事故原因をスクープし、それを手土産にテレビ朝日の夕方の番組で解説しました。現役時代から知り合いだったライバル新聞社の担当デスクがその放送を見て電話をかけてきました。
「テレ朝の記者があのネタを取れると思う?」と言ったら、自宅に飛んできて、資料の一切合切、事故原因の説明図をイラスト化するため自ら書いた下絵に至るまで持っていったそうです。なのに、識者談話は別な人を使い、紙面では一切触れなかったので「信義にもとる」と腹を立てていましたが。このときは各社の担当記者のように事故調からネタを取ったというより、データを元に調査関係者といっしょになって事故原因を考えたといった方が近いものでした。退職しても記者であることに代わりはないから、もちろん、事故調関係者の誰がネタ元だったのかは家族も含め誰にも言ってません。
 今後、ロッキードや雫石事故といった昭和史に関わる企画を担当する人もいるでしょうが、彼の書いた物や集めた資料が役立つ場面もあると思うので何かあれば声をかけてください。
 最後に書いた新聞記事は83歳だった2014年1月。小野田寛郎元少尉(91)が亡くなった時の毎日の追悼記事でした。おそらく最後までただの社会部記者のつもりで、充実した人生だったと思います。