4巻は箱が簡素 サンダーバード秘密基地を組み立て2020年02月10日 13:26

トレイシーヴィラに手すりもついた
専用ブログはこちら↓
ヤシの木も倒れる‼ Tracy Islandサンダーバード秘密基地を組み立てるだけの部屋
https://tracy-island.hatenablog.com/

松任谷由実が90歳! TBSに間違い指摘殺到?2020年02月10日 21:17

ええっ、松任谷由実が90歳! TBSに間違い指摘殺到?
 TBSが今放映している「歌のゴールデンヒット」という番組で、松任谷由実の1994年の曲、Hello, my friendに「当時65歳」というテロップが流れた。ええ、今、90歳!?
当然、TBSには電話が殺到した(らしい)。どういう事がお客様センターに尋ねたら、当時というのはその映像を収録した昨年ぐらいの事を言ってるらしい。だが、(95年)とか曲紹介に付けているのに、2019年とか説明を付けずに、当時と書いたら、誰でも誤解する。今のところ、テロップなどで説明する気はないそうなので、問い合わせしないように。
 てか、「当時65歳」じゃなくて、「当時29歳」の時の映像使ってやれや。

墜落して死んだ方がいいと絶望 日本兵救出取材 苛烈な戦い 最後の社会部記者鍛治壮一2020年02月11日 07:25

墜落して死んだ方がいいと絶望
 航空機マニアな航空ジャーナリストが輸送機C-47や軍用ヘリUH-1に絶望を味わわせられる。「他社カメラマンをヘリから蹴落とした伝説」が生まれる。記者が演じる歌舞伎の十八番「勧進帳」とは・・・・。
 鍛治壮一は30年近い会社人生のほとんどを東京本社社会部記者として過ごした。新人1年目の札幌から戻って以来、一度も転勤はない。全国紙の記者ではほかにいないだろう。唯一新聞作成部門である編集局を離れたことがある。1974年、最後の日本兵、小野田寛郎少尉がフィリピンの孤島のジャングルで発見された。当時、鍛治壮一は雑誌「サンデー毎日」にいた。そして、デスク(副編集長)であるにも関わらず、現地取材に派遣された。さらに、新聞部門に所属していないのに世紀の瞬間の新聞を1人で埋め尽くす。なぜそんな珍事が起きたのか。その裏話を振り返った雑誌「航空ファン」のコラムを紹介する。

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
小野田元少尉救出取材の“戦い”

◆二度、戦死した日本兵

 元日本兵、小野田寛郎少尉が今度こそ、間違いなくルバング島で生きている、と分かったのは1974(昭和49)年2月26日だった。小野田さんはマニラから南へ170kmの孤島、ルバング島で終戦の年の9月2日に戦死したと戸籍簿に書き込まれた。しかし、その後もルバング島では民家から食料品が盗まれたり、畑の作物が荒らされる被害があり、これは元日本兵だというウワサが流されていた。しかし、神出鬼没だからその実体がつかめない。
 ルバング島は山頂にフィリピン空軍のレーダー基地があるだけで、住む人も少ないから、ウワサは長い間そのままにされていた。1955年になって、やっとフィリピン空軍が空から元日本兵”投降勧告”のビラを撒いたが、反応がない。1958年にふたたび15,000枚のビラを散布すると同時に、日本から厚生省の役人や小野田さんの兄敏郎さんらがルバング島に上陸して調査したが、小野田さんの影も形もつかめなかった。翌年は6カ月にわたって敏郎さんらが捜索活動をしたが、やはり手がかりすら発見できない。年末に厚生省はあらためて小野田さんと彼の部下の小塚金七一等兵に死亡広報を発行する。小野田さんにとって二度目の”戦死”である。

◆虐殺された小塚一等兵

 それから13年経ち、すべて忘れ去られようとした1972年10月19日、ショッキングな事件が起きた。地元の警察隊が元日本兵と遭遇して銃撃戦となり、小塚元一等兵が殺されたのだ。小野田さんは逃走して行方不明だが、この島のどこかにいる。
 毎日新聞社会部のデスク(サツデスク)*1だった私は、1月のグアム島の横井庄一元軍曹の救出取材に続いて、ふたたび現地に向かう。小塚さんの検視書類を見て状況がわかった。2、30mの距離から撃たれ、2発、3発……8発。死んでも撃たれ、駆けつけた島民に、恨みの山刀でメッタ切りされた。"山賊"のように虐殺された。ここ10数年に30人の島民が日本兵に殺害された、と彼らは言う。
 日本大使館の葬儀で占部大使は、「帝国軍人として小塚一等兵は戦って死んだ。マルコス大統領が軍人として最高の栄誉を与えてくれました……」と弔辞を読み上げた。
 小柄な小塚さんの両親は、棺の脇で、涙も出なかった。30年前に戦争に行った息子が、こんなに大きくなって、今まで生きていた。そして今死体となって……。その衝撃が悲しみまで奪ってしまった。
 この後、日本とフィリピンによる徹底的な小野田さん捜しが実施されたが、やはり所在、生死ともに不明で、捜索打ち切りとなった。

◆「君はジャングル番記者だ」

 ところが、“世界放浪の旅”を続けていた鈴木紀夫青年(24)が、74年2月、ルバング島のジャングルで小野田さんに会い、写真まで撮影してきた。「自分は離島残置諜者(*2)だ。たとえ日本軍が敗れても死んではならない。命を惜しみ卑怯者と言われても、祖国のために生き延び、天皇陛下のために戦うのだ。この島に、自分を派遣した直属の上官、谷口義美少佐の命令がない限り、ジャングルから出ない」と言った。
 鈴木さんから話を聞き、日本大使館から外務省、厚生省へと伝わった情報が2月27日の日本の朝刊に「小野田さん生存??」の大ニュースとして載った。
 私は社会部から『サンデー毎日』副編集長に異動になっていた。『週間朝日』『週間読売』だけでなく、『週間現代』や『週間宝石』などと企画や内容で激しい販売合戦に突入していたから、新聞記者とは、また違った判断とか企画に追われていた。取材の主力は編集局の社会部だが、「カジくんが行くべき」と、またもルバングへ出張することになった。同僚の徳岡孝夫副編集長など、「ジャングル番記者の報告のタイトルで表紙に刷り込むからな」という(*3)。
 その日の夕、社会部のH記者ら2人、私、カメラマン2人は数十人の日本人報道陣としてマニラ空港に着いた。意外なことに入国管理の役人が、「なぜ、こんなにプレスが来るんだ?」と不思議そうな顔をする。そうか。今度が小野田救出の最後のチャンスと見たフィリピン側が、徹底的な報道規制を敷いていたのだ。ここで勝たねば、セスナ機をチャーターしてマニラとルバングを何度も往復し、ジャングルを駆けずり回った1年半が水の泡と消える。各社とも全力投球の構えだ。

◆日本軍人の“キカン”である

 とりあえず、日本大使館に占部大使を訪ねた。「なんと言われても、取材については一切協力できません。ルバング島にも接近禁止です」
「鈴木青年が撮った小野田少尉の写真を見せられたときは、グッときたな。29年間、降伏もせず、ボロボロの軍服なのに。じつにキチンとしている。ひと目で日本軍人と分かった」
 どちらかと言えば、元日本兵捜索には冷淡な大使だった。前回の取材のとき、「住民の中に溶け込んでいたり、現地人と結婚していれば、無理に日本人だといって探し出す必要はない」「いまさら戦争の悪夢を掘り起こし、日々の親善を傷つけることはない」と、繰り返し私に言ったものだ。その占部大使が興奮している。戦争中の教育を受けた典型的な外務官僚だ。「外務省に公電を打つとき、『ニホングンジンノキカン(亀鑑)デアル』(*4)と書きたいのに、『キカン』を『帰還』と間違われると言われ、やむなく『ニホングンジンノモハンデアル』と電文を変えた」と、大使は残念がることしきり。
 翌日、空軍基地で司令官のランクード少将に会った。ルバング島の責任者だ。
「小野田少尉は古今東西の歴史上でも、まれな軍人である。あらゆるものを犠牲にした。国家への忠誠こそ、完全なサムライスピリットだ。日本だけではない。アジアの英雄だ」
 マルコス大統領の特命もあるが、空軍の名誉にかけ、軍人同士という連帯感からも救出する意気込みである。----だが、われわれの取材はどうなるのだろうか?? あれほど息詰まる2週間が続くとは、誰も予測できなかった。

絶望、また絶望の小野田取材の“戦争”

◆抜け駆け取材不可能の厳重規制

 戦争が終わって29年。何度も何度も捜索したが行方がわからない。二度も戦死と断定した小野田寛郎少尉が、確実に生きてルバング島にいる。「生きてスパイ活動をせよ」という離島残置諜者の命令を守って戦っていた。鈴木青年とジャングルで会い、「上官の谷口義美少佐の命令がない限り、ここで戦う」と言った。
 今度こそは絶対に救出する、と奮い立ったのは日本政府や肉親だけではなかった。フィリピン政府の名誉にかけても成功させる」とマルコス大統領が、直にフィリピン空軍に特命した。そして、鈴木青年、兄の敏朗さん、谷口元上官だけがルバング島に上陸した。マスコミがルバング島で取材活動すれば、小野田少尉は姿を現さない。私はルバング島への“抜け駆け取材”は不可能と考えた。島は空軍のレーダーサイト基地だし、山頂への軍用道路以外に道らしきものがない。
 接近禁止を破って、漁船を雇って上陸を試みたテレビ会社の記者は、空軍に捕まった。加熱するマスコミに、空軍はやっと約束してくれた。「もし、谷口少佐らが小野田さんを発見したら、マニラに待機している取材陣に連絡する。各社2人ずつ、空軍輸送機で運ぶ」。毎日新聞社は新聞として社会部員とカメラマン、サンデー毎日の私とAカメラマンの4人を第一陣要員として空軍に登録した。しかし、社会部チームのHキャップは、「万一、1人しか小野田さんに会えなかったら、カジさんが原稿を書いてください」と言う。そういうときはそうしよう、と後輩のH君に答えた。

◆絶望!! C-47に乗り遅れる

「小野田少尉との接触に成功。ルバング島に渡る記者代表団は、ただちに、ニコルス空軍基地VIPルームに急行せよ」--マニラに来て12日目の1974年3月10日の午後3時、日本大使館にルバング島のレーダー基地から無線が飛び込んだ。われわれのミスで連絡が30分遅れた。予測より早い。すごく早い。夕方なら翌朝、空軍機が運ぶ約束だった。夜間照明のないルバング島は、夜、離着陸できないからだ。それなのに、これは緊急事態だ。
 4時15分、ニコルス空軍基地。ゲートに入るとき、目の前をC-47輸送機が1機、2機、滑走路に向かって進んでいくではないか。3番機のプロペラが回っている。私、加藤カメラマン……、続いて共同通信の2人。駆け寄ると、すぐにドアが開けられ、「危ない。機体から離れろ、どけ!」と軍曹が必死に叫ぶ。
 VIPルームに連れ戻される。その間に30人あまりの記者団が順番を競って並んでいる。「とても乗れない。1社1人にしろ」と広報担当の空軍大尉。「早い者勝ちにしろ」と記者の1人。「そうだ、そうだ」という声が圧倒的。--小野田少尉との最初の会見に遅れたら、すべてはゼロ。これまでの努力が、すべて消える。見送りに来た社会部のHキャップが大きな声で「落ち着くように、あわてないように、みんなに言ってください」
 どうして落ち着けるのだ。先に着いた記者たちが小野田さんと会えたら、記者会見を待つはずがない。この2週間、いや1年半にわたる激しい取材合戦を体験してきた私には、それがわかる。

◆このまま墜落してもいい!

「C-123輸送機を使うから、全員オーケーだ。国際空港側の格納庫まで行け」
 大尉の言葉が終わらないうちにVIPルームの外へ。軍用ジープが通りかかった。大尉が指差しただけで、ジープに20数人がなだれ込む。「ドント・キル・ミー。助けてくれ」。ハンドルの上に押し付けられた伍長が悲鳴をあげる。空軍兵士たちは驚き、ゲラゲラ笑う。
 5時14分、フェアチャイルドC-123プロバイダーはマニラ空港を離陸。米軍供与のかなり使いこなした機体。2、3ヶ所に穴があいていて、ザー、ゴーというものすごい轟音の機内。カメラマンたちが、数少ない窓から下界を撮ろうと、やっきになっている。私も加藤君もチャーターしたセスナ機で、この空を何回往復したことだろう。
 じっと目をつぶり、ただ、最初に小野田少尉に会えるかどうか。それだけで一杯だった。先発のマスコミに1時間は遅れてしまった。「オンボロ輸送機だ。会見に間に合わないくらいなら、このまま墜落して死んだほうがいい」と加藤カメラマンに口走った。自分の飛行機が落ちてもいいとは。本当にそう思った。彼は今でも「あんなカジさんは見たこともない」と言う。
 5時40分、ルバング島上空。モヤと夕日の斜光で島は黄色く霞んでいた。

◆またも絶望のイロコイ

 5時44分着陸。滑走路1本と、そばに堀建て小屋みたいなバラックが2つ。いた。C-47輸送機が3機。バラックの方を見た。
 しめた。地元記者、サンケイ、テレビリポーター、朝日新聞記者たちが牛囲いのように鉄条網を張った中にいる。まだだ。
 夕日が沈むまで、もう何分もない。滑走路の向こうのサンゴ礁の海に、真っ赤な太陽が落ちていく。どうすれば山頂のレーダーサイト基地まで行けるのだろうか。われわれの“戦争”がまもなく始まる。
 6時5分、日没。遥か山頂からヘリの爆音。1機、2機、こちらに向かってくる。「小野田が乗っているんだ」「ここで会見だ」。誰もがそう考え、口々に叫びながら鉄条網の柵に近づいた。カービン銃の空軍兵士が阻止する。
 ベルUH-1イロコイ・ヘリコプターが2機編隊で着陸。回転翼はブンブン回したままなのだ。3機目は、遠くC-47の向こう側に降りた。
 6時15分、指揮官らしい将校が地元フィリピン記者に何やら耳打ちした。それが合図だった。
 柵を破って、ドッと70数名の記者、カメラマンが2機のヘリ目指して殺到していく。私がヘリに近づく前に、ヘリから人間がはみ出していた。絶望!?      (つづく)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

この続きはこちら → https://kajisoichi.hatenablog.com/

脚注(鍛治信太郎)

*1 サツデスク ふつう、新聞社のデスクとは部長の下に数人いる次長を指す。欧米の新聞社でいうアンカーマンに近い。各部のデスク、例えば、社会部だったら、その日の1面や社会面にどんな記事を出すか決め、現場の記者から出てきた原稿を直し、紙面のまとめ役である整理部に売り込む。大きな部では部長とデスクの間に副部長、部長代理を置く場合もある。また、筆頭デスクが部長代理を兼ねることもある。だが、毎日新聞社会部の「サツデスク」とは、いわゆるデスクとは意味が違うらしい。現場のまとめ役であるキャップとデスクの中間にいて、デスクを補助する存在のようだ。サツとは警察の察。警視庁やエリアごとの警察署担当から出てきた原稿を直して、とりまとめるような仕事(らしい)。なにしろ、社会部が1日に扱う原稿は数十本、時に100本を超える。デスクがすべてを詳細に読み込んで直していたらとても処理しきれない。
*2 離島残置諜者 初めて聞く言葉。小野田さんは諜報・工作活動をする情報将校の養成機関「陸軍中野学校」の二俣分校(静岡県浜松市)の出身だ。太平洋戦争で、日本はフィリピンなど東南アジアの国々に次々と領土を広げたが、米軍の上陸作戦により、その島々を奪還されていった。離島に残って現地に溶け込み、友軍の復帰、再占領を支援する諜報・工作員を意味するようだ。
*3 副編集長であるデスク4人がローテで表紙を飾るメインの特集を担当する。仕事はそれだけではない。ライターに指示を出し、出てきた原稿を商品に仕立てる。デスクは基本、編集部の机にかじりついて紙面製作の責任を負うアンカー。取材はしない存在だ。そのローテから2週間も離れて海外の取材合戦に参加なんて普通はありえない。
*4 亀鑑 「人の行いの手本」という意味らしいがこれも初めて聞いた。

しずかちゃんと光秀は親戚?(1) 義仲の名字が違うのはナゼ2020年02月13日 13:20

 国民的アニメドラえもんのヒロインしずかちゃんを知らない日本人はあまりいないだろう。だが、しずかちゃんの本名が源静香(みなもと・しずか)である事は意外に知られていないのではないか。私も名字について調べていた10年前、たまたま知人と源姓の話題になって初めて教えられた。おそらく、源義経の恋人、静御前にちなんでいるのだろう。由来を確かめようとしたが、間違えて藤子不二雄(A)さん(ドラえもんではなく、怪物くんや笑ゥせぇるすまんの方)の事務所に電話してしまい、分からなかった。今度テレ朝にでも聞いてみようかと。
 さて、不思議に思った事はないだろうか。源は「源平藤橘」と総称される日本人の姓の代表格。ところが、現実の世界で源さんに出会う事はまずない。有名人でも本名は違ったりする。藤原さんはよくある名字だし、それよりは少ないが橘さんや平さんも数人は知っているだろう。なぜ、武士の頭領・源氏の源さんはこんなにも稀少なのだろう。
 また、子ども向けの義経の本を読んだ時、こんな疑問がわいた。平氏を京から追い出し、最初に都を占領したのは木曽義仲だ。義仲は頼朝・義経兄弟と父親同士が兄弟のいとこにあたる。なのに、なぜ名字が頼朝たちと違うのか。
 10年前、名字研究家・森岡浩さんに話を聞きに行って疑問が解けた。
 義仲だけでない。足利尊氏も、そのライバルの新田義貞も、武田信玄も、足利家の分家の今川義元もみんな本名は源朝臣(みなもとのあそん)なんだそうだ。彼らは清和天皇の遠い子孫とされる。天皇の子や孫には名前だけで姓がない。それが臣下となって下る際、与えられた姓が源や平。宮中の公式行事に出る際や朝廷に公式文書を出す場合は正式な氏姓で源朝臣尊氏などとしていた。
 中央で職にあぶれるなどした源氏や平家の三男、四男は地方に領地をもらう。自ら現地に出向して、地元の豪族を束ねる者もいる。その際、自分の支配権を誇示するため、本拠地の地名を名字として名乗る。栃木県足利市にあった荘園(下野国足利荘)を支配した源氏が尊氏の先祖だ。
 頼朝の親戚たちが武家として各地を支配し、日本中、源氏だらけになってしまったから、本姓ではなく、地名を元にした名字で呼び合うようになった。要するに、源氏は繁栄しすぎたために名字として残らなかったのだ。
 そして、今の岐阜県にあった土岐郡を根拠地とした美濃源氏の名門が土岐氏だ。光秀の明智氏はその土岐氏の分家とされる。
 さて、以前に、源氏をテーマに書きたいと言ったら、上司に「そんなの科学じゃないからダメ」とボツになった。大河ドラマが明智光秀をやっているので、源氏と土岐氏について書いてみる。

約束を守る事を期待してます2020年02月14日 09:42

約束守ってね
>取り込まれることはありません。そのことは記事を通じて証明していきます。
https://digital.asahi.com/articles/ASN2F7F5NN24UTIL04F.html?iref=pc_ss_date

土岐氏なのに国盗り物語が読めない しずかちゃんと光秀は親戚?(2)2020年02月14日 12:15

 前回、源(みなもと)さんがめったにいないのは、日本各地を支配した源氏がそれぞれの根拠地を名字として名乗ったからと書いた(しずかちゃんと光秀は親戚?(1) 義仲の名字が違うのはナゼ http://kajiyan.asablo.jp/blog/2020/02/13/9213306)。
 源氏の名門で、明智光秀の本家にあたる岐阜県土岐郡発祥の名字・土岐さんにはこれまで2人会った事がある。1人目はたぶん10年ぐらい前。当時、大学生ぐらいの年齢だったと思う。岐阜県の出身で、「お祖父ちゃんが言うには、ナーンチャッテ土岐氏じゃなくて、ちゃんとした土岐氏だそうです」という。美濃の守護・土岐氏は司馬遼太郎の国盗り物語に登場する。
「それで、私も自分の家の歴史を勉強しなきゃと思って、国盗り物語を読もうとしたんですけど、昔の言葉(古文?)で書いてあって読めなかったんです」。
 ええっ!。国盗り物語は中学の時にハマったが、文語で書かれていた記憶はない。で、後で確認してみた。
 もちろん現代口語で書かれていたが、冒頭が宮中の描写で、弘徽殿とか古文の教科書でもなきゃ見た事ない単語が満載。今の大学生が見たら、日本語に見えないのかな。
 さて、室町幕府の政権を支える各地の守護の多くを足利尊氏に近い源氏の末裔たち(いわゆる清和源氏)が勤めた。土岐氏もそんな美濃源氏の名門。一時は今の岐阜、愛知、三重にまたがる3カ国を支配する守護大名となった。だが、その勢いは衰え、守護代の斎藤氏を乗っ取った道三が美濃国を奪い、戦国大名になる。国盗り物語は、道三とその娘婿・隣国尾張の支配者・織田信長が主人公。
 つまり、土岐氏から美濃を奪った斎藤氏を信長が滅ぼし、その信長を土岐氏の分家の明智光秀が殺した。天下は短く、美濃を奪還するまでもたなかったが。土岐氏や明智氏は裏切り者を出した家系として長らく肩身が狭かったらしいが、今は 関東土岐会、中部土岐会など一族の集まりがあるようだ。

戦国自衛隊も同族視 光秀もダジャレ しずかちゃんと光秀は親戚?(3)2020年02月15日 08:25

光秀の本拠地・亀岡にある愛宕神社
 半村良のSF「戦国自衛隊」にこんな描写がある。 時震で戦国時代初期にタイムスリップした自衛隊員たちは、タイムスリップの地点が分からなくなると困るので、目印に神社を置いた。地元の民は自衛隊員たちが祭っているのは時の神、トキガミ様だと噂する。時は土岐とも書く。その噂が美濃の土岐氏に伝わる。土岐氏は自衛隊員たちを同族と認識し、合戦に協力する。
 これを読んで、幼心に「戦国武将がそんなダジャレみたいな事するか。そんな都合のいい話はないだろう」と少しバカにした。しかし、名字研究家・森岡浩さんに話を聞きに行って認識を改めた。
 中世の日本人にとって、名字が同じ読み方というのはとても意義のある事なのだ。本家から独立して分家を作る際、読み方が同じ別な字に変える事がよくあった。例えば、飯干と飯星(いいぼし)、高梨と小鳥遊(たかなし)などだ。同じ字は恐れ多いと言いながら、本家よりイイ感じな漢字にしてしまうのも定番。かく言う鍛治家も本家の鍛冶よりイイ感じ(冶金の冶 → 治世の治)にしてしまったのかもしれない。
 そもそも日本の中高年が漢字の意味も字面も全く違う言葉のダジャレを変に面白がるのも、読みが同じモノを同一視する伝統に根ざしているのかもしれない。
 土岐氏が「時」を名乗る者たちは同族だと判断する事はそんなに無理なこじつけでもないのだ。むしろ、勝ち馬に乗る口実を見つけて、じり貧にある一族の勢いを取り戻そうという大人の計算だってありうるだろう。
 半村良が着想を得たかもしれないエピソードがある。本能寺の変を起こす数日前。光秀は愛宕山で連歌の会を開いた。連歌の最初になる発句は主宰者の光秀が詠んだ。
「ときは今天が下しる五月哉」(ときはいま あめがしたしる さつきかな)
 「季節は今、梅雨が降る五月だよ」みたいな意味だろう。和歌も連歌もよく知らないが、教養人の光秀が先頭を切る句としてはどうなの? 武家の中では特別に文化度高めとされた光秀本来ならもう少し気の利いた事を詠むのでは。
 この句は裏の意図があったと深読みされている。「天下しる」と読めば「しる」には統治するという意味もある。また、「天が下知する」とも読める。「土岐氏(である自分)が天下を取るのだ」という決意、犯行予告であると。そんな危ないマネはしないだろうと否定論もある。ただ日本人には言葉の持つ力に対する強いこだわりがある。決行を知らせる誰かに向けてのメッセージではなく、自分自身への祈念ではないだろうか。京都にいた時、光秀の本拠地亀岡の愛宕神社には行った事があるが、この愛宕山がどこの事なのかよくわからなかった。
 光秀が使っていた桔梗紋はメチャクチャ目立つ水色だったといわれる。本能寺で奇襲攻撃を受けた信長は、敵はどこの軍勢か問う。桔梗紋の旗に取り囲まれていると知らされ、「ぜひもなし」(光秀が相手では観念せざる得ないというような意味だろう)とつぶやいたと伝わる。土岐氏が桔梗紋を使うようになったのも桔梗の古語が「おかととき」だったからとされる。

写真は、光秀の本拠地・亀岡にある愛宕神社。全国の愛宕神社の総本山である京都の愛宕神社のさらに大元だと言っていて、通称は元愛宕。柱に全国愛宕の本宮と書いてある。

しずかちゃんと光秀は親戚?(1) 義仲の名字が違うのはナゼ http://kajiyan.asablo.jp/blog/2020/02/13/9213306

土岐氏なのに国盗り物語が読めない しずかちゃんと光秀は親戚?(2)
http://kajiyan.asablo.jp/blog/2020/02/14/9213711

朝日に席を譲った優しき後 輩 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い異聞 最後の社会部記者鍛治壮一2020年02月16日 17:04

 3回に渡った小野田寛郎元少尉救出取材合戦。一度は輸送機が墜落して死んだ方がマシと絶望し、最後は勧進帳で紙面を埋め尽くす800行を吹き込んだ。この裏話のさらに裏話を鍛治壮一から聞いた事がある。
 専用ブログはこちら → https://kajisoichi.hatenablog.com/
この合戦のクライマックスは小野田少尉(*1)の元に最初に行く軍用ヘリUH-1イロコイの席取り競争だろう。前回にあるとおり、サンデー毎日のデスク・鍛治壮一とカメラマンのほかに、最初に行けた日本の報道陣は4人しかいなかった。10数人の記者が大型の四輪駆動車で着いたのは、小野田さんの会見には間に合ったとはいえ、3時間遅れだった。
 実は、この車に本当は毎日新聞社会部の後輩記者が乗っていた。ところが、乗り損なった朝日新聞の記者に「毎日は先に鍛治さんが言っているから、譲ってくれ」と頼まれ、譲ってしまったという。 後で、その話を聞いた鍛治壮一は「君はバカだな。君が譲らなければ、朝日は会見の記事を書けなかったのに」と後輩に言った。
 当時、他社でも、この取材に投入されるクラスの新聞記者で、鍛治壮一の名前を知らない者などいない。もしかしたら、他社には相変わらず「社会部の鍛治さん」と認識されていたのかもしれない。だが、鍛治壮一はサンデー毎日のデスクであって、毎日の鍛治ではあるが、毎日新聞の鍛治でも、社会部の鍛治でもない。
 だから、紙面のクレジットは異例の「本社取材班」なのだ。そんなの見た事ない。普通は本紙取材班か社会部取材班だ。
 前々回にあるように社会部の後輩キャップから「もしもの時は、新聞の記事もお願いします」と頼まれていた。週刊誌の本来の仕事があるから、「サンデーの特集の入れと重ならなければいいよ。でも、重なったらサンデーを優先する」と答えた。当然だろう。運良く、新聞と週刊誌、両方書ける日程になったのだ。
 とはいえ、夕刊を800行埋め尽くすのは常識的には1人でやる仕事ではない。社会部の後輩のデスクやキャップ、若手記者に全面的に信頼されていたのだろう。
 最後の日本兵の初会見という世紀の瞬間に立ち会える切符をライバル紙に譲ってあげた心優しい社会部記者。記者クラブなどで顔見知りだったのかもしれない。もしも、逆に自分の社が誰も現場に行けない状況だったらどれほど上から失格の烙印を押されるか。それを想ったらいたたまれなかったのではないか。だけど、朝日の記者は逆の立場だったら譲らないと思うけど(*2)。そういう朝日や鍛治壮一の方が記者としては正しい。ジャーナリストの使命を果たし、国民の知る権利を守り、ライバル紙に勝つためなら、いくらでも非情になれる。だが、人としてはどうかというと。お人好しは新聞記者に向かない。
 後に、社会部の後輩デスクから「鍛治さんがいなかったら大変な事になっていた」と感謝された。
 いつかこの連載で取り上げるが、鍛治壮一は同期の西山事件で、自分の信念に従い、「あれは知る権利とは言えない」と会社の意向に逆らう発言をした。黙らないので、上からにらまれ、新聞製作部門である編集局の記者から週刊誌へ、デスクに"出世"という形で"栄転"させられた。
 UH-1イロコイに向かってダッシュし、7席しかないシートを確保したあの日。この席が取れたか、取れないかが、記者人生の運命の分かれ道だっただろう。航空記者、マニアとして、イロコイの定員や乗り方を知っていた事も多少は有利に働いたかもしれない。その後、追放された編集局に復帰し、編集委員となり、「ロッキードの毎日」といわれた社会部の特ダネ記者に返り咲く。
(鍛治信太郎)

脚注
*1 姿を現した1974年、小野田さんの帰る帝国陸軍はとうにない。だが、彼は日本が全面降伏した後も部下を失いながら29年間遠い島国で戦い続けたのだ。武装解除の儀式が終わるまでは元少尉ではなく、少尉だったと思う。
*2 先に行った週刊朝日のデスクに全面的に記事を任せて、自分は会見に出られなかったなんて言ったら、上から間違いなく社会部記者失格の烙印を押されるから。読売はむちゃくちゃイイ人ととてつもなく人として間違っている人の両極端なのでどっちに転ぶか分からない。

やっとクルーズ船全員検査に方針転換したようだけど2020年02月17日 13:13

 ニューヨーク・タイムズの識者コメントで「乗客全員を対象とした検査を行わないこと」を非難しているのとは理由が違うが、大賛成。
 これまでは症状がある人を主に検査していて、その中では重症化率は1、2%程度だが、全員検査すれば、症状のない不顕性感染者(無症候キャリア)がどれぐらいいるか分かる。感染者全体における重症化率が分かり、たぶんそれはもっと低いはず。また、無症候キャリアから感染が起きている実態もある程度分かるのでは。
 熱のある人やその濃厚接触者だけ調べている態勢なんて無意味だと早く分かれば(現場の医師たちは最初から分かってただろうが)無駄な事に費やす時間も人材も節約できた。最初から重症感染者対策に重点を置くべきだった。

 全員検査をやりたがらなかった理由は

1)無症候キャリアなんて放っとけば体内のウイルスは消える。下手にいま検査してウイルスが検出されたら病院に入れなければならないからやぶ蛇。検査は下船させる時だけで十分。
2)とりあえず隔離ができている感染者なんか後回しにして、もっとほかの所に検査の余力を割きたい。
 といった所だろう。
広がる船内感染「日本の対応はカオス」
https://digital.asahi.com/articles/ASN2F7QP6N2FULBJ01Q.html

コロナに血清 北里博士の方法が使われるとは目鱗2020年02月18日 12:01

完治した患者の“血漿”が新型コロナウイルスの特効薬となるのか…中国「使用後明らかな回復傾向」
https://www.fnn.jp/posts/00050276HDK/202002141522_cuisai_HDK
 原理としては120年ほど前に北里柴三郎が開発し、いまでもハブにかまれた人の治療に使われている蛇毒血清療法と同じ。ただし、ハブ咬傷の治療は、人の血ではなく、馬の血を使うが。人間の血清の方が安全性が高いだろう。
 ただちょっと心配なのは、HBV(B型肝炎ウイルス)、HCV(C型肝炎ウイルス)、HIVなどの蔓延に繫がるのではないかという事。中国の献血で日赤のようなウイルスチェックをしているのかどうか知らないが、この緊急時にそんな余力があるのかどうか。また、効くという噂が立って重症でもない感染者や非感染者に民間療法的に広まったらリスクの方が大きい。
 ワクチンや新型コロナ専用の新規抗ウイルス薬をつくるとか、間抜けな事(何年かかるかわかっているのか?)を発表している所もあるが、1世紀前からある血清療法を使うというのは盲点だった。遺伝子工学で洗練されてるが、オプジーボなどの抗体医薬も原理は北里博士と同じ。
 考えられる治療法は別なウイルス用に実用化されている抗ウイルス薬をスクリーニングして新型コロナに活性のあるものを見つけるしかないと思っていた。これまでHIV用の4剤がHBVにも効いて承認されている、インフル用のアビガンがエボラにも効くようだという例がある。これらはいずれもウイルスのRNAやDNAを合成する酵素の阻害剤だ。遺伝子をつくる酵素は異なるウイルス間でも進化的に似通っているのかもしれない。これとは全く別な酵素を標的にした抗HIV薬やインフル用のタミフルが効いたというのは本当なのかどうか。放っておいても治る病気なので、HCVやHIVのように、投薬すると血中のウイルス量が激減するといったことがわかる定量法がないと効果を判定できない。
 満屋博明博士がAZTの抗HIV効果を見つけた時のような、試験管内でウイルスの増殖を抑えたり、ウイルスの酵素を阻害したりする効果があるか確かめられる仕組み(バイオアッセイ系)を確立することが重要だ。国立感染症研究所なんかはもうやっているはずだが、そういう情報はマスコミにはシャットアウトで全然出てこない。まさか、この非常時に、論文にしたいから発信を抑えているなんて事はないのだろうか。