国会で取材談話を否定した最強社長 最後の社会部記者鍛治壮一2020年05月24日 20:56

国会で取材談話を否定した最強社長 最後の社会部記者鍛治壮一
 1976年2月7日、ロッキード事件の渦中にある全日空の若狭得治社長のインタビューを鍛治壮一は書いた。国会での証言で若狭社長はその談話を否定。その裏にあったのは、

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2月6日のインタビュー
--日本の政治家からロッキードにしてくれ、という圧力は?
 正直いって、四十五年秋までは、有力代議士が「なんとかできないか」とか「いま選定作業はどうなっている」という打診はありましたよ。社運をかけた飛行機選びは、そんなことで影響されません。それも四十六年以後は、まったくなくなった。なぜだろうと丸紅に聞いたら「昔のロッキード・グラマンの戦いに政治家が登場してマイナスになったから、今回は、一切、手を引かせた」といっておった。むしろ、あとからダグラスの方がいろいろといってきた。

2月16日、国会での楢崎氏の質問
 楢崎氏 二月七日付の毎日新聞朝刊で、「日本の政治家からのロッキードにしてくれとの圧力がかかったことはなかったか」との記者の質問に対して「四十五年秋までは、有力代議士から何とかできないかとか、いま選定作業はどうなっているかなどの打診はありました」と答えています。一体、この有力政治家とはだれですか。
 若狭氏 四十五年ごろで、随分過去のことですから、はっきりしていませんが、われわれが新機種導入を進めていることは、新聞にも報道されていたわけですから、マスコミや雑誌の人や知人、政界の方からパーティーの席上などで、一体どうなるのか聞かれたことはあるかもしれませんが、どうこういうことはございませんので、そういうことは全くなかったというように申し上げた方がよいかと思います。
 楢崎氏 あなたは記者の質問に対し「正直いって、四十五年秋までは有力代議士から何とかできなかったかとか、いま選定作業はどうなっているか打診をしてきた」と述べている。一体、有力代議士とはだれなのですか。
 若狭氏 私の言葉が足りなかった。そういう事実はございません。

書けなかったこと 書きたいこと
若狭得治社長の全日空(2)
鍛治壮一
◆第1回、若狭社長単独インタビュー
「アメリカで騒いでいるが、どうなっているのか、さっぱり分かりません」という若狭社長に、こっちも、あの手この手で質問を繰り返した。「でも、トライスターがいい、と社長に言う政治家ぐらい、いませんでしたか」
-「そりゃ、いますよ」
「だれですか。名前を聞いただけで、すぐ分かるような政治家ですか。だれですか」
-「とくに、どの政治家というわけじゃない。パーティで会ったときとかに、言われただけだから。とくに、政治家の名前は言えない」
 話題を変えて、ちょっと黙っていると若狭社長は、自分からこういった。
-「ロッキードと言うと、これまで、いろいろ問題になったことがある(F-Xのロッキード・グラマン・スキャンダルのこと)。だから(輸入商社)丸紅さんが、すべて私たちにまかせて下さい、全日空は何もしないでいいから、と言ってくれた。それだけですよ」
 翌日の朝刊に若狭社長との会見記を書いた。まだロッキード事件の全容が分からないからぬるま湯につかっているような記事だったと思う。しかし、①名前は明かさなかったがある政治家にトライスターをすすめられたことがある、②丸紅が前面に出て、全日空は積極的に何もしなかった、という2点を書いておいた。
 反応は1週間後の1976年2月16日に現れた。この日、若狭社長は衆院予算委員会に証人として喚問された。質疑応答が進み、野党委員の1人が、毎日新聞を片手に、こう質問した。「あなたは、特定の政治家からトライスターをすすめられたと答えているけれど、この政治家とは、だれのことですか」
-「私はインタビューで、そんなことは言っていない」
 若狭社長は、いとも簡単に否定したのだ。一緒に取材したK記者と顔を見合わせた。否定されたことに対する怒りよりも、事件の真相に迫ろう、という気持ちの方が、はるかに強かった。ロッキード事件のヤマが裾野の方から、少しずつ見えてきたからだ。②のロッキード-丸紅-全日空という図式は、まさに若狭社長の発言どおりだったことは、間もなく明らかになった(*1)。

◆逮捕・保釈、そしてMiG-25

 7月8日、東京地検が若狭社長を外為法違反と偽証(毎日新聞記事と関係のない偽証)で逮捕した。そして7月27日、金権政治の田中角栄前首相逮捕へと進んだ。
 起訴から裁判の取材はどの新聞社も司法記者が担当する。あっという間に夏が過ぎ、9月6日、地検はロッキード事件のうちに丸紅・全日空ルートの捜査終了、若狭社長は2ヶ月ぶりに保釈になった。毎日新聞の社会部を中心にロッキード事件取材打ち上げ慰労会や、これから始まる裁判の司法記者激励会が開かれた。だが、私1人は別だった(*2)。同じ9月6日、MiG-25が函館空港に亡命してきたからだ。前首相の逮捕も“晴天の霹靂”だったが、冷戦の緊張高まるなかのソ連最新鋭戦闘機の亡命は世紀の大事件だった。函館、六本木、そして空輸されてた百里基地と、MiG-25を追った。

◆“秘密文書”とは何か!?

 82年(昭和57年)1月26日、東京地裁は若狭会長(社長を辞め会長となった)に懲役3年執行猶予3年の判決を下した。若狭会長に対する全日空のガードは固く、直接取材などできる状況ではなかった。「なぜ全日空のトップに居座っているのか」という批判だけでなく、森山運輸相も「けしからん」と公言する雰囲気だった。ところが、その年の11月、なにかの雑誌に若狭会長の近況が本人の談話とともに載っていた。正式の取材ルートに違いないと考えた。ただにち全日空広報にインタビューを申し込んだ。「どうぞ」という返事に、私の方も驚いたが、今思えば、あの2ヶ月間ぐらい、「沈黙するより、本人が語った方がいい」という全日空の判断、あるいは方針転換があったのだろう。
 私には若狭会長本人に聞きたいことがあった。裁判でも出てこなかったある秘密文書について。
 田中角栄内閣が発足したのが72年7月7日。9月29日に田中角栄首相が訪中して日中国交が回復した。日中航空路にどちらが就航するか? 日航と全日空で1年半にわたってもめた。全日空は日中国交再開のため全力投球してきた岡崎前社長、大株主である朝日新聞社が新中国派の関係で、福岡-上海路線で、悲願の国際定期便実現のチャンスとみた。しかし、「国際線は日航1社」という“航空憲法”で日航と決定した。
 だが、74年4月、日中航空協定が成立すると、台湾は激怒して、日台路線を打ち切り、日航を閉め出した。日航は好況の台湾ルートを失ったばかりか、台湾飛行情報区を通過できなくなり、すべての東南アジア線は台湾を遠く離れて飛行するため年間200億円の損失となった。翌75年7月、日台の民間レベルの取り決めが調印され、やっと航空路再開が合意された。
 では、どの航空会社が飛ぶのか。もし、日航が台湾へ就航したら、今度は“1つの中国”を国是にする中国が怒る。結局、日航が100%出資する子会社「日本アジア航空」を作って運輸省に申請した。中国に接近し、アンチ台湾の全日空は、社長としても台湾に手を出せるはずがなかった。
 ところが若狭社長は、世間も全日空社員も、アッというような行動に出た。東京-台北国際定期便を運輸省に申請したのだ。(敬称略)

(つづく、文中敬称略)

鍛治壮一 KAJI Soichi 元毎日新聞社会部編集委員

注(鍛治信太郎)
*1 ロッキード事件には、第18回のスパイカメラで紹介した本命の児玉ルート以外に、丸紅ルートと全日空ルートがあった。丸紅ルートは、全日空が購入する新型機にロッキード社のトライスターが選ばれる事を確実にするため、ロッキード社の工作資金が丸紅を通じて、田中角栄首相に渡ったという疑惑。全日空ルートは、ロッキード社の工作資金が全日空を通じて、政府高官に流れたという疑惑。
*2 「ロッキードの毎日」と呼ばれた毎日新聞は社会部の取材班を中心として事件についてまとめた本を出すが、鍛治壮一は次の事件(ソ連最新鋭機ミグ25札幌亡命事件)で忙しく執筆陣に加わっていない。